クリスチャンになったことを、両親に告白する(証)Part2

Part1 のリンクは下に貼っておきます!

https://christian-lives.com/christian/33/

目次: Contents

はじめて両親にクリスチャンになったことを伝えた日

日本人のクリスチャンに立ちはだかる最初の壁

自分と親しい関係の人にクリスチャンになったことを告げること 

これってかなり勇気がいるんですよね~

  • クリスチャンであるという理由で距離を置かれてしまわないか
  • 友人関係を壊したくない
  • 仕事場で言うのは会社の方針上、大変厳しい
  • 家が他の宗教(仏教や神道)に属している。  etc.

他にもたくさんあると思います、、、

ただ、忘れてはならないこと。 それは

クリスチャンとして生きる上で、常に神様はどう思っているか、を考えること

クリスチャンにとって、当たり前なんだけど物凄く大事なことですよね。

僕自身も、しょっちゅう自分の欲望に身を委ねてしまいます(数えたらキリがない(-_-))

やっぱり、御言葉が必要ですよねw

エゼキエル書 3章 10節

更に主は言われた。「人の子よ、私があなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。」

私たちが困難に立ち向かったとき、いつでも誰でも、立ち返ることのできる御言葉がある。

御言葉を中心にして生きることができる喜びは計り知れませんね(^o^)

神様の考えなんて分かるん?(クリスチャンでない方へ) 

(先にまとめを見ていただいても大丈夫です!)

神様がどう思っているかなんてどうやったら分かんねんっ(´・ω・`) 

と思って頂けたら、幸いです!

実はクリスチャン自身も、神様の考えを完璧に理解するなんて、到底不可能なんです(泣)

イザヤ書 55章 9節

天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を 私の思いはあなた達の道を、高く超えている。

ここで言う、”私=神様のことで、あなたたち=人間”のことです!

ただ、たった一つだけ神様の考えを知る方法があります。(実はもうすでにしちゃってますw)

ぜひとも知っておいて下さい。

神様の考え=聖書に書かれている内容(御言葉) だから”聖書が何を言っているか?”を実際に見てみよう!

ということです。ではなぜ、”聖書に書かれている内容は神様の考え”だといえるのでしょう?

マタイによる福音書 4章 4節

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

ここで言う、”パン=肉体”という意味です。

人間には、もちろん肉体があるのですが、それだけで生きていけなくて、”神様の言葉”によって生きている、と書かれています。

ちなみに、”神様の言葉”って何なんでしょう?

ヘブライ人への手紙 4章 12節

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

凄まじいですねww(・∀・) ぶっ飛んでますw

やっぱり、先程紹介したように、神様は人間の思考できる範囲内を遥かに超えためーっちゃ高いところにいるんですね!

もう一度、じーっクリと聖書箇所をみると、、、

マタイによる福音書 4章 4節

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

これは、先程紹介した聖句です。赤文字でハイライトした”書いてある”とは、どこに書いてあるのでしょうか?

申命記 8章 3節

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

オレンジでハイライトされた部分が該当箇所です。

イエスが、旧約聖書に書かれている内容(申命記は旧約聖書の一部)を用いたということで、旧約聖書は神様の言葉が書かれていると分かります!

では何で”イエスが言ったこと=神様の言葉”になるんでしょうか?(一番大事なとこ!)

ヨハネによる福音書 6章 38節

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。

ヨハネによる福音書 4章 34節

わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

実はイエスは、自分自身のためにしたことは一個もないんです、、、(次がPointです!

イエスは自分自身のためじゃなくて、神様が心で思っていることを行っていたのです!

新約聖書はイエスが行ったことを基に書かれているので、”新約聖書も神様の言葉である”と言えます!

まとめ

  1. イエスは自分自身のためじゃなくて、神様が心で思っていることを(みこころ)を行った 
  2. そんなイエスが、旧約聖書の内容を用いた(申命記8:3) ➡ 旧約聖書は神様のみこころ
  3. 新約聖書は、イエスが行ったことを基に書かれている ➡ 新約聖書も神様のみこころ
  4. 1~3より、”聖書に書かれている内容=神様の考え”
  5. (補足)神様の言葉ってめっっちゃパワフル!!

聖書に書かれている内容の信憑性であったり、イエス・キリストがどんな人なのかは、またブログで書きます。

どうやって勇気をもって、両親に告白したのか

どうやって勇気を持てたのか?

それは、次の聖句が関係しています。

ヨハネによる福音書 16章 33節

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

2,000年以上も前に、クリスチャンがこの世で困難があることを、イエスは既に予言しているんですね(^^)

ただ気になるのが、”私は既に世に勝っている”という部分。

しかもこの聖句、イエスが最後に弟子たちに行った言葉なんです!

この世の何に、イエスは”勝っている”のか?

これは、あくまでも僕の意見です(ぜひとも、ここまで読んでくださった方がどう思われたか、コメントしていただけると、ありがたいです!)

この世の最大の摂理である”あらゆる生き物は生まれたら、必ず死ぬ” に勝利(=打ち砕いた)のではないでしょうか!?

弟子たちの前で復活した姿を見せるイエス

イエスは十字架上で死んでから、3日後に復活したわけですが、、、

これを信じることは本当に難しいと思います。

復活をしたイエスを見たことも触れたこともないし、そんなぶっ飛んだ話信じろなんて言われても、当然無理だと思います。

実は、聖書的に考えても、イエスの復活を信じることは難しいことなんです。

自分もクリスチャンではなかったとき、このことを信じるのは非常に難しかったです。

イエス自身は以下のようにトマス(12使徒の内の1人)に言いました。

ヨハネによる福音書 20章 27~29節

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

イエスは十字架上で、手に杭を打たれ、脇腹を槍で刺されました。

でも、トマスは復活したイエスを見る前にこう言っていました。

ヨハネによる福音書 20章 25節

そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない

復活したイエスを見た瞬間に、考えも一瞬で変えられたんだと思います。

ただ、2,000年以上も後の世界にいる私たちは当然、イエスの復活した姿を誰も見ていません。

トマスは復活したイエスに触れていないが、その存在を見ています。我々は復活したイエスを見ても触れてもいません。

そりゃー、イエスが復活したことを信じるのは難しいですよね。

そこで、次のことを実際にやってみました。

あらゆる感情をイエスに委ねてみる

マタイによる福音書 11章 28~30節

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

ぜひとも、イエスって誰やねんとか、神様おるんやったら何でこんなこと起こんねんとか、あらゆる感情を祈りの中で素直に言ってみて下さい。

祈りの中で、素直な気持ちを言葉にすることは非常に大事なことです!

僕の場合、段々とこんな気持ちになりました。

”イエスに依存したい(=安らぎを得たい)”

ヨハネによる福音書 15章 5節

わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 

ここで言う”わたし=神様”のことで、語ったのはイエス本人です。

赤文字でハイライトした”その人の中にとどまっている”こそまさに、”神様そしてイエスに依存したい”に当たります。

読んでいく中で、少しずつ勇気が出てきていたら本当に嬉しいです!\(^o^)/

最後に、”多くの実を結ぶ”とはいったいどんな実を結ぶのでしょうか?

ガラテヤ人への手紙 5章 22~23節

これに対して、御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です

聖書の内容の中で、最も大事な、そしてイエスに委ねることによってあたえられる安らぎ(=平安)、これらすべて実の中身です。

この箇所を読んだとき勇気を与えられたのはもちろんのこと、それ以上に”喜びがありました!!

両親にクリスチャンであると告白する

2019年1月14日、両親に自分がクリスチャンであることを、告白しました。

神か親どっちの方が大切なんや

母親が僕に聞いた質問です。

あなたなら、どう答えますか?

”親”以上に感謝すべき人は存在しない!!(クリスチャンではない方へ)

クリスチャンにとっての答えは、”神”です。

ただ、僕の場合、両親に対して”神の方が大切だ”とは答えられませんでした。

というのも、僕は両親のことを愛しています。

家族愛というのは、本当に素晴らしく、心温まるものです

それと同じように、神様そしてイエス様も大事です。(これまでの内容で少しでも理解していただければ幸いです)

人は死んだら土に還る(=何も残らなくなる)と言います。

やはり、自然の摂理に人間はどうあがいても勝てないのです

人間に限らず、すべての生き物は必ず死ぬ。

これは、”永遠”が存在しないことを意味します。

しかし、神様は私たちに永遠の愛、そして安らぎを与えて下さいます。

それは、どんな困難な状態下であっても同じです。

中でも有名なのが、”クリスチャンの歴史=迫害の歴史”であるということです。

江戸時代に日本で行われた、踏み絵はその際たる例だと思います。

マタイによる福音書 5章 10~12節

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

”迫害をされているのに、喜びを感じるなんてクレイジーだ”

かつて、友達が僕に言って来た言葉です。

僕は”洗脳されているのではないか”、と本気で不安になりました。

ただ、もし僕が洗脳されているのであれば、そもそもこんなブログを書きません。

というのも、洗脳されている人の大きな2つの特徴というのが

  1. 自分が洗脳されていることに気づかない。
  2. 閉鎖的(=周りの意見を聞かない)になってしまう。

しかし、僕の場合、

  1. 自分はもしかしたら、洗脳されているのではっと疑う。
  2. そして、ブログを通して自分の意見を発信している(=閉鎖的ではない)

この2つができているので、自分が洗脳されている訳ではありません。

神様おるんやったら、、、

”神様がいるんやったら、なんで今こんなに不運なんやオレは” と僕に尋ねてきた大学の友人に対して送った聖句です。

ヨハネによる福音書 14章 27節

わたしは平安をあなた方に残していく。わたしの平安をあなた方に与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな、またおじけるな。

世間が私たちに与えるものを想像してみましょう。

お金、地位や名誉、社会的保証 などなど

どれも、永遠のものではないですよね。ただ、ここまで読んでくださったは既に神様が与えてくださるものを知っているわけです。

”御霊の実”ですね!

ガラテヤ人への手紙 5章 22~23節

これに対して、御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です

やっぱり、神様そしてイエスに依存したいと感じるわけです。

迫害の中にあっても喜びを感じられるのは、自分自身の力では到底不可能で、神様に依存しているがゆえに、できることです。

ただそれでも、”親の方が大切だ”と思われると思います。(むしろ、そう思われる方が普通だと思います)

僕はクリスチャンになってまだ半年程度。その気持ちはすごく分かります!

親を大切にする気持ちは、いつでも大事にすべきなのは間違いない!!

僕が言いたいのは、このことを否定するわけではなく、むしろ、

このことを肯定した上で、神様が与えてくださる愛に少しでも目を向けていこう” ということです!!

この話の議論はまた他の記事でするとしましょう。

ぼくは、正直なところ、ここまで読んでくださって頂いたことに感謝する気持ちで一杯です(^^)

父親に頬を殴られ、母親は落胆し涙を流した

”神か親どっちが大切なんや” という質問に答えられなかった結果です。

目を覚ませ、と殴ってきた父親。

そんな子に育てた覚えはないと泣き出す母親。

僕が感じたのは、絶望でした。

両親にこんな思いをさせてしまったという気持ち。

神様を愛しているが、当然両親も愛しているからこそ、なかなか答えきれなかったことが分かってもらえないという気持ち。そして、

両親に自分の気持ちが1ミリも伝わらなかった悔しさ

両親も自分のことを愛していると期待していたからこそ、少しでも自分の気持ちが伝わると思っていた。

けど、現実は違った。

怒りを通り越して、呆れられた。

そんな両親の理解のなさにイラ立ちを覚えた。

でも、親の気持ちが分からないほどガキじゃない。

教会には行くな! クリスチャンであることを他の誰にも言うな! お前は洗脳されている! 二度と神とかイエスとか口にするな! お前の育て方を間違えた! 

その一言一言が本当に辛かった。

本当の愛とはいったい何なのだろうか

クリスチャンにとっての愛とは以下の通りである。

コリント人への手紙Ⅰ 13章 4~8節

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

両親が自分に言った言葉が如何に愛と反しているか、分かると思います。

ただ、自分にも罪があって、両親の理解のなさにイラ立ちを覚えてしまったということ。

これは、御霊の実と反する肉欲的なものであって、完全にです。

クリスチャンではない両親との向き合い方が如何に、難しく迫害の多いものかを痛感した一日となりました。

ここまで読んでくださってありがとうございます!

次回は、クリスチャンであると告げたその後についてです。

またお会いしましょう(^o^)

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